7.烏山用水(からすやまようすい)と江成久兵衛(えなりきゅうべえ)
今からおよそ160年前、相模川の近くにある田名村には、わき水を利用(りよう)した水田がわずかにあるだけでした。
当時、田名村をおさめていた烏山藩(からすやまはん)(栃木(とちぎ)県が本拠地(ほんきょち))は、年貢(ねんぐ)をふやすために、水田を広くして米作りを始める計画を立てました。
米を作るためには、たくさんの水が必要(ひつよう)なので、相模川から水を引くための「用水路」を作らなければなりませんでした。
しかし、当時の相模川は、たびたび大はんらんを起こす大きな川で、用水路やていぼうをつくることは、とてもむずかしいことでしたが、農民(のうみん)たちは、これを力を合わせてつくることに決めました。
用水路やていぼうをつくる工事は、この地いきに住んでいた人たちが行いました。
今のようにすすんだ機械(きかい)はないため、土をほるのも、ほりだした土を運ぶのもすべて人の力ですすめられました。用水路とていぼうは、よく年に完成(かんせい)しました。
しかし、次の年に起きた大こうずいで、ていぼうはくずれ、田んぼは、土砂(にうまってしまいました。
烏山藩(からすやまはん)は、工事をあきらめてしまいましたが、地元で水車業を営(いとな)んでいた江成久兵衛(えなりきゅうべえ)は、用水路をもう一度作りなおそうと決心し、烏山藩に工事の願(ねが)いを出しました。
久兵衛(きゅうべえ)は、前と同じ失敗(しっぱい)をくりかえさないようにしんちょうに用水路とていぼうのせっけいをしました。
村の人びとは、こうずいにこりて手伝(てつだ)う人がいませんでしたが、久兵衛は、自分の財産(ざいさん)のほとんどを使い、一生をかけてこの工事を進めました。
やがて、むすめむこの重兵衛(じゅうべえ)や村の人びとも手伝うようになり、ていぼうと用水路を完成(かんせい)させることができました。
こうして久兵衛の一生の努力(どりょく)によって、村の人たちは、田を開き、米作りができるようになりました。