【Web企画展】 第24回企画展 「相模原の村々と明治期の戦争」
日清戦争、日露戦争など明治期の戦争に関連した「戦役紀念碑」が、相模原市内各所に残されています。これらは、戦没者の慰霊碑として建てられています。この他にも津久井地域では、戦役記念の植樹が元になり学校林が設置されました。意外な所に明治期の戦争に関連した史跡・資料が残っています。それらの碑とともに、歴史的公文書から建碑の経緯を探り、村々と戦争の関わりを考えます。
目次
- 展示の概要
- 慰霊碑に表れる明治期の戦争
- 日清戦争と軍夫「玉組」
- 馬匹書類から見た日露戦争準備
- 戦没記念植樹から学校林設置へ
1 展示の概要
相模原市内には、忠魂碑(ちゅうこんひ)・表忠碑(ひょうちゅうひ)・忠霊塔(ちゅうれいとう)・戦役紀念碑(せんえききねんひ)(紀念は、現在は記念と書くことが多いですが、戦前では紀念と書くことが多く、調査した紀念碑は全て紀念を使っているためそのまま表記します)・殉国碑(じゅんこくひ)など様々な名称の慰霊碑(いれいひ)が、各所に数多く、残されています。これらは、戦没者の慰霊などのために建てられています(別紙「相模原市域慰霊碑一覧」参照)。
また、戦役記念に小学校等に植樹が奨励され、この植樹が契機となり、特に津久井地域では「学校林(がっこうりん)」が設置されたりもしています。
今回の企画展では、このような村々に残る慰霊碑・紀念碑や学校林に焦点をあて、明治期の戦争が、村人の生活とどのような関わりがあったか、村人の生活に軍事がどれほどのインパクトを与えたのかを確認していきます。なお、戦後に建てられた殉国碑等であっても、明治期の戦没者の名前が刻まれている場合は、調査・確認の対象にしています。
2 慰霊碑に表れる明治期の戦争
慰霊碑を見ていくと、主に戦没者名を刻んだ「忠魂碑」・「表忠碑」・「殉国碑」と、戦没者だけでなく従軍者名も記した戦役紀念碑(大野)、外征両回大戦紀念碑(上溝)、戦没従軍紀念碑(相原)などがあり、戦死者がいないケースで従軍者のみを記した、日露戦役凱旋紀念碑(大沢)・従軍紀念碑(与瀬)があります。
慰霊碑に出てくる明治期の戦争としては、五稜郭戦役(ごりょうかくせんえき)(与瀬)、西南戦役(せいなんせんえき)(田名・川尻・湘南・千木良・与瀬・名倉)があり、日清戦役・日露戦役となっています。
五稜郭の戦いが出てくるのは、与瀬神社の従軍紀念碑ですが、与瀬神社神主家の諸星一作が御親兵(ごしんぺい)(後の近衛兵)として従軍したということです。これに関連して、戊辰戦争(ぼしんせんそう)については尾崎咢堂の父、尾崎行正(おざきゆきまさ)が断金隊(だんきんたい)に参加しており、牧野村の加藤可成(かとうかなり)(萩原源五郎)も断金隊に所属しています。(『津久井町史通史編近世・近代・現代』487P、『藤野町史通史編』403P)
幕末・明治期の神道家や国学者が勤王のために維新政府に出仕することは、どのような伝手(つて)があったのか詳細はわかりませんが、往々あったようです。
西南戦役(明治10年)については、戦没者は湘南村・千木良村・名倉村に各1名ですが、従軍者として田名村2名、川尻村3名、与瀬駅1名、内郷村1名(『相模湖町史歴史編』417P)、合計で10人が従軍しています。
さらに、『城山町史通史編近現代』55Pでは、小倉吉村宇太吉、中沢井上清吉が参加しているとしています。かなり多くの兵士が明治6年の徴兵令に基づき出征していることがわかります。
No. | 年号 | 年 | 旧村名 | 碑銘 | 所在地 | 対象/目的 | 県忠魂碑等建立調査集番号 | |
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1 | 昭和 | 18 | 大野村 | 慰霊塔 (元、忠霊塔) |
南区東大沼1-17 | 相模原市慰霊塔公園内 | 昭和18年8月建立。昭和27年再建(慰霊塔として設置) 2106柱合祀 | 相模原-1 |
2 | 大正 | 10 | 大野村 | 忠魂碑 | 南区東大沼1-17 | 相模原市慰霊塔公園内 | 大正10年3月10日、大野村建立 | 相模原-3 |
3 | 大正 | 10 | 大野村 | 戦役紀念碑 | 南区東大沼1-17 | 相模原市慰霊塔公園内 | 日清・日露・大正3~9年までの戦病死者名、従軍者名記載。大正10年3月碑と同時セットか。 | 相模原-4 |
4 | 昭和 | 35 | 大野村 | 慰霊碑 | 南区東大沼1-17 | 相模原市慰霊塔公園内 | 大野地区戦没者慰霊奉賛会建立、地区別の戦没者名の一覧 | 相模原-2 |
5 | 明治 | 40 | 上溝町(溝村) | 外征両回大戦紀念碑 | 中央区上溝1678 | 亀ヶ池八幡宮境内 | 明治40年11月溝村尚兵義会建立、戦死者名、従軍者名記載。 | 相模原-5 |
6 | 大正 | 9 | 上溝町(溝村) | 忠魂碑 | 中央区上溝1678 | 亀ヶ池八幡宮境内 | 大正9年11月、溝村建立、。日清・日露戦死者名。 | 相模原-6 |
7 | 昭和 | 34 | 上溝町(溝村) | 殉国 | 中央区上溝1678 | 亀ヶ池八幡宮境内 | 昭和34年11月、上溝地区殉国碑建設委員会、戦没者200余柱(地区ごとの戦没者名) | 相模原-7 |
8 | 昭和 | 53 | 上溝(丸崎地区) | 馬坂の由来と想い出の記、平和の礎 | 中央区上溝5791-6 | 丸崎交差点上 | 昭和53年秋、丸崎地区有志、郷里出身戦没者法名・氏名(11名) | |
9 | 明治 | 28 | 田名村 | 征清紀功之碑 | 中央区田名4833-1 | 三角山公園内 | 明治28年9月、田名村恤兵会、日清戦争従軍者名(23名) | 相模原-11 |
10 | 明治 | 39 | 田名村 | 日露戦役忠魂碑 | 中央区田名4833-1 | 三角山公園内 | 明治39年秋、田名村兵事会、日露戦争戦死者4柱 | 相模原-10 |
11 | 明治 | 41 | 田名村 | 日露戦役紀念碑 | 中央区田名4833-1 | 三角山公園内 | 明治41年4月、田名村兵事会、従軍軍人名 | 相模原-23 |
12 | 昭和 | 9 | 田名村 | 表忠碑 | 中央区田名4833-1 | 三角山公園内 | 昭和9年10月、田名村在郷軍人会田名村分会、西南戦役・欧州戦役等出兵者名 | 相模原-9 |
13 | 昭和 | 32 | 田名村 | 殉国碑 | 中央区田名4833-1 | 三角山公園内 | 昭和32年5月、田名殉国碑建設委員会、大東亜戦争戦没者156柱 | 相模原-12 |
14 | 昭和 | 61 | 田名 | 平和の碑 | 中央区田名4833-1 | 三角山公園内 | 昭和61年8月、平和の碑建設賛同者一同建立 | 相模原-8 |
15 | 平成 | 19 | 田名 | 戦没者之碑 | 中央区田名4833-1 | 三角山公園内 | 平成19年2月、田名戦没者遺族会。相模原市長小川勇夫書。 | |
16 | 明治 | 40 | 大沢村 | 日露戦役凱旋紀念碑 | 緑区大島1778-3 | 大沢まちづくりセンター隣接地 | 明治40年3月、海軍大将東郷平八郎書、日清・日露従軍者名 | 相模原-25 |
17 | 明治 | 40 | 大沢村 | 忠魂碑 | 緑区大島1778-3 | 大沢まちづくりセンター隣接地 | 明治40年3月、希典書、戦没者名の刻字なし | 相模原-16 |
18 | 昭和 | 19 | 大沢村 | 慰霊碑 | 緑区大島1778-3 | 大沢まちづくりセンター隣接地 | 昭和19年3月、戦没者34名、昭和19年3月以降戦没者38名、計72名 | 相模原-14 |
19 | 昭和 | 28 | 大沢村 | 慰霊碑 | 緑区大島1778-3 | 大沢まちづくりセンター隣接地 | 昭和28年5月、戦没者104柱 | 相模原-15 |
20 | 昭和 | 61 | 大沢村 | 平和の碑 | 緑区大島1778-3 | 大沢まちづくりセンター隣接地 | 昭和61年8月、平和の碑建設有志会建立、書(知事内山岩太郎) | 相模原-13 |
21 | 明治 | 42 | 相原村 | 表忠碑 | 緑区橋本2-7-9 | 橋本二丁目交差点脇 | 明治42年12月、相原村。元帥公爵山縣有朋書 | 相模原-19 |
22 | 明治 | 42 | 相原村 | 戦歿従軍紀念碑 | 緑区橋本2-7-9 | 橋本二丁目交差点脇 | 明治42年12月、相原村。明治37・8年戦役、戦死軍人8名、従軍軍人43名。明治27・8年戦役従軍13名、明治40・41年事件参加軍人7人 | 相模原-17 |
23 | 昭和 | 30 | 相原村 | 忠魂碑 | 緑区橋本2-7-9 | 橋本二丁目交差点脇 | 昭和30年11月13日、橋本地区忠魂碑建設委員会。満州事変以降の戦没者226柱 | 相模原-18 |
24 | 明治 | 42 | 麻溝村 | 〇征紀念碑 | 南区下溝1100 | 八景の棚公園 | 明治42年4月、麻溝村尚武会。希典書。明治27・8年戦役戦死1名、明治37・8年戦役戦死4名。従軍者計77名。 | 相模原-24 |
25 | 昭和 | 30 | 麻溝村 | 慰霊 | 南区下溝1100 | 八景の棚公園 | 昭和36年11月、麻溝地区慰霊碑建立委員会。大正3年から昭和23年までの戦没者150柱。 | 相模原-20/26 読み間違いによるダブルカウント |
26 | 昭和 | 24 | 麻溝村 | 戦歿者供養塔 | 南区当麻578 | 無量光寺境内 | 昭和24年10月23日、市場部落一同。昭和17年から20年までの戦没者7名。 | 相模原-27 |
27 | 昭和 | 26 | 麻溝村 | 戦歿者供養塔 | 南区当麻744 | 観心寺境内 | 昭和26年3月。裏面彫りが浅く読めず。 | |
28 | 明治 | 45 | 新磯村 | 表忠碑 | 南区磯部1937-1 | 新磯ふれあい広場脇 | 明治45年4月、新磯村。明治27・8年戦役病死者2名、明治37・8年戦役戦病死者7名。同従軍者計33名。 | 相模原-21 |
29 | 昭和 | 29 | 新磯村 | 表忠碑 | 南区磯部1937-1 | 新磯ふれあい広場脇 | 昭和29年秋、石井孝撰文。表面 戦没者145名、裏面従軍者450名。 | 相模原-22 |
30 | 明治 | 39 | 津久井郡 | 出征軍人戦歿忠魂碑 | 緑区中野1058-2 | 奈良井自治会館及び児童公園内 | 明治39年4月22日、元帥侯爵山縣有朋書 | 津久井-1 |
31 | 明治 | 39 | 津久井郡 | 戦没者氏名 | 緑区中野1058-2 | 奈良井自治会館及び児童公園内 | 上記碑の付属碑か?、西南戦争以降の戦没者氏名、22ヶ村84名。軍夫(日清戦争時の軍夫玉組)を含む。津久井郡全体。 | 津久井-3 |
32 | 昭和 | 35 | 中野・三井地区 | 殉国碑 | 緑区中野1058-2 | 奈良井自治会館及び児童公園内 | 昭和35年4月、中野・三井地区民建立。日清・日露戦役(17名)、大正年間(2名)、大東亜戦争(148名)、計167名 | 津久井-2 |
33 | 昭和 | 三ヶ木村 | 戦歿忠魂碑 | 緑区三ケ木937 | 三箇木神社境内 | 建碑年代不詳、三ヶ木村奉公義会。明治27年~大正7年4名、大東亜戦争戦没者41名、追刻2名、計47名。 | 津久井-4 | |
34 | 昭和 | 40 | 津久井町 | 慰霊塔 | 緑区青山2978 | 安養寺境内 | 昭和40年8月13日、津久井町長・津久井町遺族会。佐藤栄作書。管内戦没者475柱 | 津久井-5 |
35 | 昭和 | 27 | 串川村 | 殉国碑 | 緑区青山1013 | 青山神社境内 | 昭和27年11月、串川村。靖国神社宮司筑波藤麿書、日清~太平洋戦争死没者183名。 | 津久井-6 |
36 | 大正 | 10 | 鳥屋村 | 忠魂碑 | 緑区鳥屋1140 | 鳥屋諏訪神社境内 | 大正10年11月、帝国在郷軍人会鳥屋村分会、元帥陸軍大将子爵川村景明書 | 津久井-7 |
37 | 昭和 | 29 | 鳥屋村 | 殉国之士 | 緑区鳥屋1140 | 鳥屋諏訪神社境内 | 昭和29年3月、鳥屋村建之。明治37・8年戦役~大東亜戦争まで、戦没者63名 | 津久井-8 |
38 | 昭和 | 6 | 青野原村 | 忠魂碑 | 緑区青野原1619 | 旧青野原支所跡地 | 昭和6年9月建設、青野原村、陸軍大将一戸兵衛書。戦没者2名 | 津久井-9 |
39 | 昭和 | 31 | 青野原村 | 殉国之士 | 緑区青野原1619 | 旧青野原支所跡地 | 昭和31年5月、津久井町青野原建。支那事変~太平洋戦争戦没者77名、満州開拓団死亡者40名 | 津久井-10 |
40 | 昭和 | 30 | 青根村 | 殉国碑 | 緑区青根1304 | 青根諏訪神社境内 | 昭和30年7月、津久井町青根建、靖国神社宮司筑波藤麿書。日露~大東亜戦争戦没者34名、満州開拓団犠牲者88名 | 津久井-11 |
41 | 明治 | 40 | 青根村 | 陸軍歩兵上等兵勲八等功七級佐藤栄太郎君之碑 | 緑区青根1304 | 青根諏訪神社向い | 明治40年3月、学友小林房太郎撰・書、昭和3年移設 | 津久井-12 |
42 | 明治 | 28 | 千木良村 | 征清軍人紀念碑 | 緑区千木良850 | スナックサンセットメモリー裏 占有地 | 明治28年10月、陸軍及千木良村。日清戦争戦没者2名(病死か) | 相模湖-1 |
43 | 明治 | 40 | 千木良村 | 日露戦役紀念碑 | 緑区千木良850 | スナックサンセットメモリー裏 占有地 | 忠魂碑とセットか、日露戦争従軍者の紀念碑。翠洞松野落次郎書、小島勝蔵鎬。従軍者36名。 | 相模湖-2 |
44 | 明治 | 40 | 千木良村 | 忠魂碑 | 緑区千木良850 | スナックサンセットメモリー裏 占有地 | 明治40年11月、千木良村軍人会、松野落次郎謹書。西南戦争~日露戦役までの戦没者5名。鳥屋石工小島勝刻 | 相模湖-3 |
45 | 昭和 | 31 | 千木良村 | 殉国慰霊碑 | 緑区千木良850 | スナックサンセットメモリー裏 占有地 | 昭和31年4月15日、相模湖町千木良建、鈴木覚一表題並書、戦没者67名 | 相模湖-4 |
46 | 昭和 | 32 | 小原町 | 招魂碑 | 緑区小原529-1 | 小原八幡神社境内 | 昭和32年6月、小原招魂碑建設委員、遺族会長鈴木覚一謹書。戦没者榎本七五三吉等10名 | 相模湖-5 |
47 | 昭和 | 10 | 与瀬町 | 従軍紀念碑 | 緑区与瀬1392 | 與瀬神社境内 | 昭和10年3月10日与瀬町在郷軍人会・与瀬町男女青年団。五稜郭戦役・西南戦役・日清~満州事変の従軍者の氏名。 | |
48 | 昭和 | 32 | 与瀬町 | 平安神社 | 緑区与瀬1392 | 與瀬神社境内 | 木造社殿のため、読取りはできず | 相模湖-6 |
49 | 昭和 | 32 | 与瀬町 | 殉国英霊之碑 | 緑区与瀬1392 | 與瀬神社境内 | 昭和32年4月、裏面彫りが薄く読み取れず、第二次世界大戦戦没者78名という。 | 相模湖-7 |
50 | 昭和 | 6 | 内郷村 | 忠魂碑 | 緑区寸沢嵐1009 | 内郷小学校向かい側台地上 | 昭和6年3月10日、帝国在郷軍人会内郷村分会、陸軍大将一戸兵衛書。トヤ石工小島勝 | 相模湖-8 |
51 | 昭和 | 6 | 内郷村 | 合祀者氏名 | 緑区寸沢嵐1009 | 内郷小学校向かい側台地上 | 忠魂碑とセットか。戦没者10名、昭和12年~15年までの戦死者が追刻されている。計18名 | 相模湖-10 |
52 | 昭和 | 28 | 内郷村 | 殉国芳名 | 緑区寸沢嵐1009 | 内郷小学校向かい側台地上 | 昭和28年9月、内郷村長宮崎大作撰、遺族会長鈴木覚一題並書。第二次大戦戦没者93名。 | 相模湖-9 |
53 | 昭和 | 30 | 吉野・小渕・沢井 | 慰霊碑 | 緑区小渕167 | 藤野神社境内、地蔵広場 | 昭和30年3月、神奈川県知事内山岩太郎謹書、吉野・小渕・沢井地区出身戦没者88柱 | 藤野-1 |
54 | 大正 | 3 | 名倉村 | 忠魂碑 | 緑区名倉2803 | シュタイナー学園裏、丘の上 | 大正3年11月28日、尚武会・青年団(関東大震災により倒壊)、昭和4年4月15日再建。田中義一書。西南の役以降の戦没者41柱 | 藤野-2 |
55 | 昭和 | 10 | 日連村 | 忠魂碑 | 緑区日連1493 | 日連神社境内 | 昭和10年4月7日、日連村尚武義会。陸軍大将荒木貞夫書。戦没者(日清(1)・日露(4)) | 藤野-4 |
56 | 昭和 | 5 | 牧野村 | 忠魂碑 | 牧野字中尾4542 | 牧野郵便局前の丘、占有地 | 昭和5年5月、牧野村分会、陸軍大将一戸兵衛書。8名分の戦没者芳名(コケが繁茂し、読み取り不能) | 藤野-5 |
57 | 昭和 | 29 | 牧野村 | 慰霊碑 | 牧野字中尾4542 | 牧野郵便局前の丘、占有地 | 昭和29年5月3日牧野村。戦没者109柱。裏面コケ繁茂。 | 藤野-6 |
58 | 昭和 | 30 | 佐野川村 | 慰霊碑 | 緑区藤野佐野川 | 倉子峠頂上付近 | 昭和30年7月16日、佐野川村、慰霊碑建設委員会、題字神奈川県知事内山岩太郎書、相沢允夫謹書。英霊68柱 | 藤野-7 |
59 | 大正 | 14 | 川尻村 | 表忠碑 | 緑区川尻4171 | 川尻八幡宮境内、占有地 | 建設年なし、表忠副碑と同時か、安正書。戦没者4名、従軍者66名。 | 城山-1 |
60 | 大正 | 14 | 川尻村 | 表忠副碑 | 緑区川尻4171 | 川尻八幡宮境内、占有地 | 大正14年3月、大正期(シベリア出兵等)、昭和6・7年満州・上海事変等従軍者名11名。 | 城山-4 |
61 | 昭和 | 28 | 川尻村 | 殉国英霊碑 | 緑区川尻4171 | 川尻八幡宮境内、占有地 | 昭和28年3月21日、川尻村、靖国神社宮司筑波藤麿書。日露戦争以降の戦没者116名。 | 城山-2 |
62 | 昭和 | 31 | 城山町 | 殉国英霊碑 | 緑区川尻4171 | 川尻八幡宮境内、占有地 | 昭和31年10月18日、城山町、靖国神社宮司筑波藤麿書、川尻村碑にない湘南村・三沢村中沢分の西南戦争以降の戦没者63名を刻む | 城山-3 |
63 | 明治 | 33 | 湘南村 | 落合兵次郎碣 | 緑区小倉1024 | 落合孝二家の庭 | 明治33年孟春、湘南村恤兵会外有志、陸軍軍医監長瀬時衡題、 リニア中央新幹線工事の為小倉八幡神社入口から移転 |
城山-5 |
相模原市域慰霊碑一覧図
3 日清戦争と軍夫「玉組」
日清戦争及びそれ以前の戦争に関する資料は、町村文書資料(歴史的公文書)にはほとんど残されていません。
これは、町村役場自体が、明治22年の市制・町村制の施行に始まった事に関係しています。日清戦争(明治27~28年)については、郡役所との往復文書の中にわずかに出てくる位です。
今回の調査の中で、緑区中野の奈良井(ならい)自治会館の庭(児童公園)に残る「戦没者氏名」碑を細かく読む中で、西南戦争から日露戦争までの戦没者の氏名が、津久井郡22ヶ村(与瀬町を除く)84名確認できました。氏名の書き方が、「村名+兵種+氏名」で書かれているのですが、兵種の所に「軍夫(ぐんぷ)」と書かれている人が9名いました。
これは、日清戦争の際に、三多摩壮士(さんたまそうし)といわれる自由民権家達が、それまでの政府との対決姿勢から転換し、積極的に輜重(しちょう)を担(にな)う軍夫として戦争協力を志願したもので、軍夫「玉組」と呼ばれています(乾照夫「軍夫となった自由党壮士‐神奈川県出身の「玉組」軍夫を中心に‐」『地方史研究』177号、1982年6月)。
明治28年(1895)1月26日、森久保作蔵(もりくぼさくぞう)(東京府議)を取締とする軍夫団「玉組」が結成されます。
3月6日に後備歩兵第一聯隊の兵士と共に輸送船で宇品港(うじなこう)を出港し、台湾澎湖諸島(たいわんほうしょとう)を目指します。
船内でコレラ病患者が発生、さらに赤痢病にも見舞われ、「玉組」総員432名中101名が病死するという悲惨な状況になっています。
津久井郡から何人の玉組参加者がいたかは、はっきりしていませんでしたが(「明治28年 軍夫玉組名簿」『日野市史史料集2社会・文化編』昭和54年)、今回の奈良井の「戦没者氏名」碑で改めて再確認できました。
緑区 千木良 征清軍人紀念碑 明治28年
4 馬匹書類からみた日露戦争準備
この2点の文書は、『明治30年度~35年徴発馬匹関係書類綴』(湘南村文書)の中に残されていた津久井郡長からの通牒・訓令です。
両方ともに、明治33年度から馬匹徴発が第3師団において行われることになったことを伝える、通牒・訓令です。共にコンニャク版と呼ばれる簡易印刷のため、写真での紹介になります。
本来であれば、関東は第1師団もしくは近衛師団の管轄なのですが、名古屋にある第3師団が行うという通牒です。
湘南村文書の『明治40~45年度徴発馬匹関係書類』によると、本来の管轄師団である第1師団に戻されるのは、明治41年度からです。陸軍省大日記(りくぐんしょうだいにっき)、明治32年「軍事機密大日記(ぐんじきみつだいにっき)2/4」の中に、「動員計画令(どういんけいかくれい)ニ関スル件」(11月21結了)、さらに「戦時編制改正(せんじへんせいかいせい)ノ件」(11月24日結了)が出されています。
明治32年末頃、日本陸軍の中で何らかの態度決定があり、戦争の準備が進められていると考えられます。
5 戦没者祈念者植樹から学校林設置へ
竹本太郎「明治期における学校林の設置」(『東京大学農学部演習林報告』)によると、学制・教育令下、不動産による資本金蓄積方法として、学田・学校林の設置が自然村(町村制以前の江戸時代以来の村落を近代史では自然村と言います)を中心に行われたとされ、町村制施行により新たな行政村が生まれ、地方学事通則に基づいて学校基本財産として学校林が設置されたとされます。
『神奈川の林政史』によると、明治14年(1881)に愛甲郡半原村で村有林の荒廃を憂えた村の識者が、半原小学校の基本財産林造成のための規約を設け、植林に着手したのが県内での最初の例とされます。
明治28・9年頃、県知事中野健明(けんちじなかのたけあき)が各小学校に樟樹(くすのき)の種子・苗木を寄贈しており、この頃は樟脳(しょうのう)・樟樹が奨励されています。
明治32年3月、県が「町村立小学校樹栽規程」を出し、さらに樹栽の奨励を行います。
日露戦争後、戦役紀念として小学校基本財産の蓄積が奨励され、卒業生等からの篤志寄付を受けての「戦役紀念小学校基本財産蓄積及管理規程」の案が郡長から示されます。
その動きの中、麻溝村では図書館資金の募集を行い、図書館図書の購入が進められます(『戦役紀念図書台帳』)。
一方、山林の豊富な津久井地域では、川尻小学校千代延(かわしりしょうがっこうちよのぶ)校長及び内郷小学校長谷川校長が積極的に取り組み、青年団事業の一環として植林を進め、村有地に学校林を設置していきます。
津久井地域での基本財産の蓄積は、村有地等に植林を行い、学校林を設置する形で進みます。
なお、第二次大戦後になると、国土緑化運動を展開、その一環として学校植林運動が推進され、津久井郡学校植林推進協議会が結成され、小・中学校・高校を巻き込んだ学校植林運動が展開されます(『学校林関係書類』)。
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