じじのかたり ~元消防団員が語る昔ばなし~
このお話は、元消防団員である小山喜重(こやま きじゅう)さんが子どものころに聞いた話や御自分の体験談などを1冊の本に取りまとめたものを抜粋したものです。相模原市の昔の様子や相模原市に住む私たちの貴重な参考となればと思い紹介いたします。
第9話 萬木(まんき)先生ととりあげばあさん
萬木先生は、氷川神社境内の旧神楽殿の留守居(留守番)をしながら、寺子屋を開いて近所の子ども達に読み書きを教えていました。また、清兵衛新田(せいべえしんでん)の大勢の人達に苗木を作ることも教えていました。最初の苗木は、「丸葉榛の木(まるばはんのき)」で、3年ぐらいたつと相模川から筏(いかだ)に積み、伊豆方面に積み出しました。4、5年して、榛の木に「鉄砲虫(カミキリムシの幼虫で樹木に穴をあけ木を枯らす虫)」がついたので、「夜叉榛の木(やしゃはんのき)」の苗木に替え、伊豆方面に売り出しました。現在も伊豆には、「夜叉榛の木」が茂っています。萬木先生は、清兵衛新田に多くの功績を残しました。
さて、その萬木先生の奥さんであるトキさんは、「とりあげばあさん」と言われ、清兵衛新田を中心に、およそ一里四方(いちりしほう)のお産のとりあげをし、とりあげた子どもは、数百人にも及んだということです。とりあげばあさんを迎えに行く時は、大八車(だいはちぐるま)にむしろと布団を敷き、寒い夜などはふるえながら行ったそうです。また、当時は、ハサミやナイフなどもなく、青竹をそぎ、ヘラを作り火で焼いてそれでへその緒を切ったようです。この時代には各家庭に土間があり、歳徳神(としとくじん)の方(恵方)のすみに、お産のあとの物を埋めました。とりあげばあさんは、明治十数年の頃より、とりあげをはじめて90歳近くまで長生きされて、皆さんに大変喜ばれました。
小山喜重(こやま きじゅう)さん
小山家は、弘化2年(1845年 江戸後期)ごろからの旧家で、喜重さんは、明治36年、先代春吉さんの長男として生まれました。喜重さんは、旭小学校を卒業後、家業の農業に従事しつつ、青年団役員、消防団役員等を勤め、昭和13年から陸軍造兵廠に技術課職員として奉職し、終戦を迎えました。戦後は、造園業や食糧増産に力を入れ、数多くの要職を歴任し、農地改革、近代農業の確立に尽力されました。晩年は、相模原市生きがい事業団理事、氷川神社責任者総代として活躍し、地域の子どもたちへも「昔の遊び」なども伝えました。
なお、喜重さんの御子息である小山光(こやま あきら)さんは、第7代相模原市消防団長(平成元年4月1日~平成5年5月25日)に就任しました。
参考文献「じじのかたり」
- 発行日 昭和61年11月1日
- 著者 小山喜重
- 編集・発行 「昔ばなし」編集会
- 印刷 湘南堂印刷有限会社
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