【Web企画展】 第19回企画展「広報さがみはら写真ニュースと歴史的公文書で辿るさがみはらの出来事」
目次
はじめに
1 開業百年、全線開通90年。相模線
- 相原村の取組
- 電化・複線化の促進に向けた活動
2 返還から市民の憩いの場へ
- 「座間小銃射撃場」返還
- 「キャンプ淵野辺」返還、地元第一号は弥栄小学校
- 返還から市民の憩いの場へ。淵野辺公園・相模原麻溝公園での出来事
はじめに
当時の出来事や話題を写真で紹介する「広報さがみはら写真ニュース」(公文書館所蔵広報的資料・以下「写真ニュース」という。)で取り上げた相模線と、淵野辺公園、相模原麻溝公園に関連する出来事を写真ニュースと歴史的公文書などで辿ります。
今回の企画展では、「開業百年、全線開通90年。相模線」と「返還から市民の憩いの場へ」の2つをテーマに、相模線における橋本駅開通に向けた相原村での取組と開通後の沿線市町における電化複線化の取組や、「キャンプ淵野辺」や「座間小銃射撃場」の返還から、市民の憩いの場となった淵野辺公園や相模原麻溝公園で行われた催しや関連する出来事に関する歴史的公文書を写真ニュースとともに紹介します。
1 開業百年、全線開通90年。相模線
相原村の取組
大正10年(1921)9月28日、茅ケ崎駅‐寒川駅間の相模鉄道線が開業しました。さらに、昭和6年(1931)4月29日、厚木駅‐橋本駅間が延伸・開業し、全線開通しました。今年は、開業から百年、全線開通から90年の節目にあたります。現在は、JR東日本の相模線ですが、最初は私鉄の相模鉄道株式会社で、大正6年(1917)12月18日に設立総会が行われています。当初は、砂利採取・運搬と旅客貨物輸送が半々の軽便鉄道として出発しています(市立博物館所蔵新磯村石川家資料)。
昭和18年(1943)、相模鉄道が神中鉄道を吸収合併し、相模鉄道相模線・神中線と呼ばれますが、翌19年6月、戦時体制の輸送力増強政策の中、国(運輸通信省)に買収され国有化し、省線電車相模線になります。以降、国鉄(日本国有鉄道)からJR東日本へと移行します。
歴史的公文書としては、橋本駅への乗り入れのための用地交渉などの「相模鉄道関係書類」(昭和3年)が相原村文書に残っています。また、新磯村石川家資料に村民の出資資料や座間新戸駅(現・相武台下駅)開業の際、駅に通ずる新設道路設置の寄付芳名帳などが残されています。地域の発展に向け、官民一体で努力していたことがわかります。
相模鉄道関係書類(昭和3年)
〔出典:相模鉄道関係書類(昭和3年)〕
相模原市立公文書館所蔵【歴史的公文書】
相模線の橋本駅開通に向けた用地交渉や設計協定書、竣工に係る承認書などが綴られています。
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相模鉄道関係書類(承認書)(PDF 70.0KB)
※クリックすると、「承認書」を表示します。
相模鉄道株式会社発起趣意書他(大正6年)
〔出典:相模鉄道株式会社発起趣意書他(大正6年)〕
相模原市立博物館所蔵
発起趣意書のほか、起業目論見書や定款、線路予定図などが綴られています。
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相模鉄道株式会社発起趣意書他(線路予定図)(PDF 62.2KB)
※クリックすると、線路予定図(相模鉄道線路平面図)」を表示します。
相模鉄道株式会社 株式申込証(大正6年)
〔出典:相模鉄道株式会社発起趣意書他〕
相模原市立博物館所蔵
相模鉄道株式会社の株式申込書。発起人の一人に元相原村長の相澤菊太郎が名を連ねています。
相模鉄道座間新戸駅新設道路寄付芳名並びに諸費簿(昭和6年)
〔出典:相模鉄道座間新戸駅新設道路寄付芳名並びに諸費簿〕
相模原市立博物館所蔵
座間新戸駅(現在の相武台下駅)の新設道路の寄付芳名帳。開通日(昭和6年4月29日)以前の昭和6年2月1日付となっていますが、当初この日に開通式を行う予定であったためです。
電化・複線化の促進に向けた活動
全線開通から34年後の昭和40年(1965)の相模原市の人口は163,381人で、沿線人口はまだまだ少なく、列車本数が少なかった当時は、乗客が線路伝いに家路へと向かうことも少なくなかったようです(写真)。
昭和40年(1965)11月22日、相模線沿線の三市四町の市町長、議長で構成する「相模線電化複線促進期成会」の設立総会が開催されています。
総会では、増結増発並びに電化複線化や駅舎の整備、中間駅の新設などの要望を採択し、国鉄総裁、関東支社長、東鉄管理局長、八王子管理所長へ陳情書が提出されました。
期成会と時期を同じく、昭和39年(1964)、鉄道の新設、増設等促進運動の展開を目的に、神奈川県知事、県内市町長や商工会議所連合会会頭などで構成する「神奈川県鉄道輸送力増強促進会議」が設置されました。
昭和61年(1986)には、神奈川県鉄道輸送力増強促進会議国鉄関係合同部会が開催され、これまでの電化複線化の早期実現、通勤・通学時における列車の増発・増結といった要望から「試行列車」の平常ダイヤ化や八王子駅までの直通などといった新たな内容を加えた要望活動が行われました。
平成3年(1991)には全線電化され、電化によるスピードアップやダイヤ改正による運行本数が増加し、今では通勤通学の足として利用されています。
相模線電化複線促進期成会設立総会について(昭和40年)
〔出典:相模線電化複線促進期成会書類〕
相模原市立公文書館所蔵 【歴史的公文書】
昭和40年11月22日に開催された設立総会の復命文書です。総会資料として、この総会で採択した陳情書などが綴られています。
相模線電化複線化に関する陳情書(昭和40年)
〔出典:相模線電化複線促進期成会書類〕相模原市立公文書館所蔵 【歴史的公文書】
陳情書では、電化複線化や駅舎の整備、中間駅の新設などを要望しています。
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相模線電化複線化促進に関する陳情書(PDF 102.2KB)
※クリックすると、陳情書の内容を表示します。
2 返還から市民の憩いの場へ
「座間小銃射撃場」の返還
戦後まもなく、市内にはキャンプ淵野辺などの米軍施設があり、麻溝台には「座間小銃射撃場」という施設がありました。戦前は、旧日本陸軍士官学校の小銃射撃場として使用され、戦後、米軍に接収され、その後も射撃場として使用されていました。
昭和43年(1968)12年23日に開催された第9回日米安全保障協議委員会において、「米軍施設・区域調整計画」が示され、この計画では、全国148施設の米軍提供施設(当時)のうち、約50施設(県内は10施設)について、返還、移転の計画が示され、この中に「座間小銃射撃場」が含まれていました。
「座間小銃射撃場」については実弾演習中に銃弾が防護壁をこえて飛び出すことがしばしば起こるなどの課題もあり、市においてもさまざまな協議が進められていました。
こうした中、昭和44年(1969)7月31日、「座間小銃射撃場」は返還されました。同年、相模原市長及び相模原市議会議長名で、防衛庁長官、防衛施設庁長官、県知事宛てに要望書を提出し、近郊緑地保全区域として指定し、将来、県立公園として市県民の憩いの広場として建設すべく計画を進めていることから市に開放するよう要望しています。
返還後、座間小銃射撃場のあった場所には、神奈川県立相模原公園が開園し、隣接する相模原麻溝公園と両公園を会場に、平成4年(1992)に第9回全国都市緑化さがみはらフェア(グリーンウェーブ相模原‘92)が開催されています。
FAC3107 座間小銃射撃場の全部返還について(昭和44年)
〔出典:米軍車両輸送・小銃射撃場問題〕
相模原市立公文書館所蔵【歴史的公文書】
昭和44年7月25日付け横浜防衛施設局長から相模原市長あての通知です。
FAC3107 座間小銃射撃場の全部返還についての要望(昭和44年)
〔出典:米軍車両輸送・小銃射撃場問題〕
相模原市立公文書館所蔵【歴史的公文書】
相模原市長及び市議会議長名で、防衛庁長官などにあて市に開放するよう要望しています。
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FAC3107 座間小銃射撃場の全部返還についての要望(PDF 94.8KB)
※クリックすると、要望書の内容を表示します。
「キャンプ淵野辺」返還、地元利用第一号は弥栄小学校
現在、市立弥栄小学校や淵野辺公園、市立博物館などがある一帯は、「キャンプ淵野辺」という米軍基地でした。
市長を会長とする「市米軍基地返還促進市民協議会」の米軍基地の早期返還の促進活動などを経て、昭和49年(1974)11月30日、「キャンプ淵野辺」は国に返還されました。
返還後、国・地元・保留地の三分割方式により、国利用施設として昭和55年(1980)に国民生活センター、昭和61年(1986)に東京国立近代美術館フィルムセンター相模原分館(現在・「国立映画アーカイブ相模原分館」)が完成、同年、文部省宇宙科学研究所(現在・「国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)」)が移転しています。
市においては、昭和53年(1978)に弥栄小学校が開校し、昭和55年(1980)には弥栄中学校が、昭和58年(1983)に由野台中学校が開校しました。
昭和52年(1977)には、弥栄小学校の開校に向け、市長名で自民党幹事長、塩川衆議院議員あてキャンプ淵野辺跡地への小学校建設についての要望書が出されています。
また、当初計画に位置づけがなかった博物館については、昭和53年(1978)に「相模原市立博物館設置要望書」が提出され、市のキャンプ淵野辺留保地整備計画に「博物館・美術館などの文化施設の検討」が盛り込まれ、平成7年(1995)に相模原市立博物館として開館しています。
キャンプ淵野辺跡地への小学校建設についての要望(昭和52年)
〔出典:米軍提供施設の跡地利用書類(キャンプ淵野辺跡地小学校書類)〕
相模原市立公文書館所蔵【歴史的公文書】
キャンプ淵野辺跡地への小学校建設について自民党幹事長などにあてた要望書です。
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キャンプ淵野辺跡地への小学校建設についての要望(PDF 76.1KB)
※クリックすると、陳情書の内容を表示します。
キャンプ淵野辺留保地の変遷(昭和23年)
〔出典:キャンプ淵野辺留保地整備計画〕
相模原市立公文書館所蔵【保存行政資料】
昭和23年の米陸軍の利用から、用地全面返還、弥栄小学校開設、平成19年当時の4つの時期のキャンプ淵野辺留保地の様子が確認できます。
返還から市民の憩いの場へ 淵野辺公園、相模原麻溝公園での出来事
返還後、市民の憩いの場となっている淵野辺公園・相模原麻溝公園では、さまざまな催しが行われています。
さがみ風っ子文化祭は、子どもたちの豊かな人間性の育成を目的に、小・中学校等における日頃の教育活動の成果を広く発表するもので、各学校の特色を生かした催しとなっています。
また、「銀河連邦」は相模原市の呼びかけにより昭和62年(1987)に淵野辺公園に隣接する宇宙航空研究開発機構(JAXA)が縁で交流する市町で建国しました。現在は5市2町で構成し、宇宙をテーマに人事交流や経済交流を行っています。平成3年(1991)に行われたさがみ風っ子文化祭では、各共和国の子ども大使を招き、交流を図るとともに『銀河連邦子ども会議』が開催されました。
さらに、相模原麻溝公園が開園した昭和60年(1985)の10月6日には、中国無錫市との友好都市を締結しています。
昭和32年(1957)に中国政府農墾部長が相模原市へ農業技術の視察に訪れたのをきっかけに中国との交流が始まり、昭和56年(1981)には中国社会科学院副院長を団長とする一行が本市の経済状況を視察した際、無錫市の訪問を勧められ、その年に相模原市日中交流協会訪中団が初めて無錫市を訪問したことから交流が始まりました。
友好都市締結後の10月16日付で、無錫市長から相模原市長にあて、市訪問時の感謝とこれからの友好交流への期待が綴られた手紙が届けられました。
返還から市民の憩いの場へ、市内から全国へ、そして世界へ向けさがみはらの出来事が繋がっています。
中国無錫市長の手紙(昭和60年)
〔出典:友好都市関係書類2-2〕
相模原市立公文書館所蔵【歴史的公文書】
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中国無錫市長の手紙(和訳)(PDF 200.7KB)
※クリックすると、手紙(和訳)が表示されます。
関連情報
- 第19回企画展 「広報さがみはら写真ニュースと歴史的公文書で辿るさがみはらの出来事」(チラシ)(PDF 1.0MB)
- 第19回企画展 「広報さがみはら写真ニュースと歴史的公文書で辿るさがみはらの出来事」展示資料目録(PDF 257.9KB)
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