【Web企画展】 第18回企画展「『軍都計画』と相模原」第3弾~相模原陸軍病院(米軍医療センター)の変遷~
目次
はじめに
1 「軍都計画」と相模原
2 陸軍医療センターの返還
3 相模大野周辺整備
4 陸軍通信学校等のその後
はじめに
政令指定都市「相模原」を考える上で、その歴史的背景は他の政令指定都市とは大きく異なっています。そこで、第11回企画展「『軍都計画』と相模原」、第15回企画展「「軍都計画」と相模原 その後」に続き、「『軍都計画』と相模原の第3弾として、相模原陸軍病院(米軍医療センター)を中心に、その後の相模大野周辺の変遷について探ります。
なお、本Web企画は、第18回企画展「『軍都計画』と相模原」第3弾~相模原陸軍病院(米軍医療センター)の変遷~として、1月16日(土曜日)から3月19日(金曜日)まで開催を予定していましたが、公開できませんでした(コロナウイルス感染防止のため1月13日から当面の間、休館しています)。
そこで、第11回、第15回及び第18回企画展の展示資料のうち、その一部をWeb企画展として公開するものです。
1 軍都計画と相模原
昭和初期、人口3万人が住む広大な原野であった相模原台地がいわゆる軍都になるきっかけ、それは1936(昭和11)年6月27日の陸軍からの一本の電話連絡でした。用地買収交渉から第一期工事完成までわずか1年3カ月という突貫工事ぶりで、1937(昭和12)年9月、陸軍士官学校(今の「キャンプ座間」)が東京市ヶ谷から転営してきました。
そして、翌1938(昭和13)年には臨時東京第三陸軍病院(今の「独立行政法人国立病院機構 相模原病院」)、陸軍造兵廠東京工廠相模兵器製造所(のちの相模陸軍造兵廠。今の「相模総合補給廠」)、陸軍工科学校(のちの陸軍兵器学校。今の「麻布大学」)が建設され、1939(昭和14)年には陸軍電信第一連隊、陸軍通信学校、1940(昭和15)年には原町田陸軍病院(のちの相模原陸軍病院。その後「米陸軍医療センター」)と、相模原台地一帯には、東京から続々と軍事施設や軍需工場の移転が進み、1942(昭和17)年の陸軍機甲整備学校(その後「米陸軍キャンプ淵野辺」)まで、8つの陸軍施設が建設され相模原は軍都と呼ばれるようになりました。そして、これに対応するため、1939(昭和14)年9月には、市域北部では相模陸軍造兵廠を中心に、「近キ将来ニ於テ人口十万以上ノ都市ノ出現ヲ見ルハ必至ノ情勢」という、「相模原都市建設区画整理事業」の事業説明が神奈川県議会で行われています。
都市計画法を適用し、道路、交通、住宅、商業などを整備し、国道16号の40メートル道路や現在の市役所周辺の整然としたまちなみはこの当時の区画整理事業によるものです。
そして、1939(昭和14)年12月、2町6か村による「相模原軍都建設連絡委員会」が結成され、各町村から合併の意向が示され、合わせて、町村の合併協議が進められ、1941(昭和16)年4月29日、2町6か村が合併し、「相模原町」が誕生しました。
2 陸軍医療センターの返還
市内南部方面については、1939(昭和14)年1月には、陸軍通信第一連隊(のちの米陸軍相模原住宅地区)、5月には陸軍通信学校、1940(昭和15)年3月には原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院)と、相模原台地一帯には、東京から続々と軍事施設や軍需工場の移転が進み、8つの陸軍施設が建設され、その後、終戦により、陸軍施設の多くが米軍に接収されました。
そのうち、相模原陸軍病院は1945(昭和20)年9月20日、調達要求書第4386号により接収され、同月25日に米陸軍第128衛戍病院(のち米陸軍第141衛戍病院)が開設されます。1958(昭和33年)1月15日には、在日米陸軍の病院を統括し、在日米陸軍医療センター(FAC3098)(以下「医療センター」という。)となりました。
医療センターは米陸軍の軍人、軍属とその家族等のための総合病院として診療業務のほか、予防医学の研究等が行われ、ベトナム戦争当時は約700床のベットが満床で、横田基地から昼夜を問わずヘリコプターで傷病兵が運ばれてきたといいます。そして、ベトナム戦争終結により、1973(昭和48)年1月以降は機能が縮小されていきました。
一方、本市にとっては、1958(昭和33)年8月の首都圏整備法の指定(市街地開発区域第1号)を契機に人口が急増し、市の南の玄関口である小田急相模大野駅(旧通信学校駅)周辺の都市開発に大きな支障が生じていました。
1958(昭和33)年9月には相模原市議会に基地対策特別委員会が設置され、基地の現状把握に努めていました。1968(昭和43)年9月には地元の大野南地区自治会連合会と相模大野商工連合会が、まちづくりの致命的な障害となっていると、早期返還の促進を市に陳情。これを受け、市は県知事あてに医療センターの全面返還を要望。かつてのキャンプ淵野辺における電波障害制限地区指定問題に端を発して組織された、相模原市電波障害制限地区指定反対実行委員会が発展的に解消され、1971(昭和46)年6月には相模原市米軍基地返還促進市民協議会(以下「市民協」という。)が結成されました。市民協ともども粘り強い全面返還運動を展開。1973(昭和48)年1月の第14回日米安全保障協議委員会において医療センターに関する移転の協議を継続することが決定され、1977(昭和52)年8月には、医療センターの返還に合意する旨が覚書の形で日米合同委員会施設委員会に提示され、同年12月15日の日米合同委員会において診療部門、病院部門の移設完了後返還することについて合意されました。
米陸軍医療センター早期返還の促進についての陳情
1968年(昭和43)9月
(昭和43年度米軍提供施設の跡地利用書類)
相模原市立公文書館所蔵【歴史的公文書】
まちづくりの致命的な障害となっていると、大野南地区自治会連合会、相模大野商工連合会から出された、米陸軍医療センターの早期返還の促進を求める陳情です。
在日米陸軍医療本部の全面返還について(要望)
1968(昭和43)9月
(昭和43年度米軍提供施設の跡地利用書類)
相模原市立公文書館所蔵【歴史的公文書】
大野南地区自治会連合会、相模大野商工連合会からの陳情を受け、在日米陸軍医療本部の全面返還を要望した資料です。
医療センター返還促進市民の集い(パンフレット)
1973(昭和48)年11月
(昭和49年度~50年度米軍提供施設の跡地利用書類)
相模原市立公文書館所蔵【歴史的公文書】
昭和48年11月18日、南文化センター(当時)において、相模原市米軍基地返還促進市民協議会が主催し開催された「医療センター返還促進市民の集い」のパンフレットです。
米軍医療センターの跡地利用について(答申)
1975(昭和50)年11月
(昭和49年度~50年度米軍提供施設の跡地利用書類)
相模原市立公文書館所蔵【歴史的公文書】
米軍医療センターの跡地利用について、審議会からの答申です。市の南の玄関口である小田急線相模大野駅前という立地の中、教育施設、行政施設、福祉関連施設、スポーツ、青少年文化関連施設、都市公園、交通施設及び商業関連施設の配置について提言されています。
FAC3098 米陸軍医療センター返還について
1981(昭和56)年3月
(昭和55年度米軍提供施設返還等書類(医療センター全面返還等書類))
相模原市立公文書館所蔵【歴史的公文書】
FAC3098 米陸軍医療センターを昭和56年4月1日に日本に返還する旨を通知する書類です。
新興都市土地区画整理事業処理ニ関スル件
1946(昭和21)年3月
(昭和23年相模原関係)
神奈川県立公文書館所蔵【歴史的公文書】
新興都市として、軍事施設や軍需工場を核とした区画整理を実施し軍都建設を目指す旨が記された書類です。全国23地区のうち相模原は国内最大の規模でした。昭和14年度から当初20年度でしたが、23年度まで延長され、道路はほぼ骨格が完成し、県営水道や住宅2300戸が建設され、跡地には東京農業大学、成城学園、高等女学校等が進出を予定していました。
相模原都市建設区画整理事業に関する『陳情書』
1946(昭和21)年10月
(昭和25年相模原土地区画整理農地転用関係陳情書)
神奈川県立公文書館所蔵【歴史的公文書】
区画整理事業終了後、農地法適用(自作農創設特別措置法)に危機感を持ち、事業を継続し、「当初の目的である、新興都市化するよう」求める陳情です。陸軍施設跡地には既に帝国女子専門学校等が進出しています。
3 相模大野周辺整備
相模大野駅周辺のまちづくりは、1972(昭和47)年に相模大野駅周辺土地区画整理事業に着手し、1983(昭和58)年3月には相模原市商業振興ビジョンで相模大野地区を中心商業地として位置づけられる(中心商業地形成事業)と、医療センターの返還によりまちづくりの拠点として商業・緑・文化の開発テーマのもと街と一体となるよう整備が進められました。
特に、医療センター返還跡地の利用については、相模原市米軍提供施設跡地利用対策審議会に諮問しその答申を受け、小田急相模大野駅を拠点とした広域的なまちづくり計画を踏まえ、神奈川県と連携し、国との協議を重ね、1983(昭和58)年12月15日の国有財産関東地方審議会において跡地利用が決定しました。
そして、地元利用として、複合文化施設である「グリーンホール相模大野」、立体駐車場、自転車駐車場、「相模大野中央公園」、そして「県立相模大野高校(のちの県立相模原中等学校)」、国利用分として、集合住宅「ロビーシティ相模大野五番街」ができ、都市型百貨店「伊勢丹相模原店」が1990(平成2)年9月開業(2019(令和元)年9月閉店)。また、留保地には、外務省研修所、大蔵省公務員住宅が整備されました。
医療センター跡地及び周辺整備基本計画調査‐概要版-
1985(昭和60)年3月
相模原市立図書館所蔵[行政資料]
相模大野駅周辺の市街地整備事業に総合的に取り組み、市南部の中心市街地に相応しい魅力と活力ある街づくりを行うため策定した計画です。
中心商業地形成事業、医療センター跡地利用計画、区画整理事業などで構成されています。
4 陸軍通信学校等のその後
一方、陸軍電信学校は、通信に従事する幹部候補生、下士官候補生を教育する学校で、1925(大正14)年に設立されましたが、陸軍士官学校の練兵場を利用するため、1939(昭和14)年5月20日に東京杉並から相模原に移転してきました。
終戦後その跡地には、1945(昭和20)年4月14日に戦災のため校舎を焼失した、帝国女子専門学校(のち相模女子大学:【上の写真】陸軍通信学校当時のものを使用する相模女子大学正門)が東京小石川から1946(昭和21)年4月に移転しました(当初は1年間の貸与)ほか、相模原町立大野第三国民学校仮教場(のち市立谷口台小学校)、県立相模台工業高校(のち県立相模原総合産業高校)などに転用されています。現在、相模女子大学構内には陸軍通信学校表門(同大学正門)のほか、将校集会所(同大学茜館)及び庭園、高さ18メートルの高架水槽(鉄筋コンクリート造の打ち放しの配水搭で、今でも現役で使用されている)、陸軍のシンボルマークである五芒星の形が入ったマンホールなど、約10の施設が文化遺産(軍事施設)として残っており、市立谷口台小学校には、倉庫があり、軽油庫らしいが鳩の餌を入れていたとも言い伝えられています(陸軍通信学校には鳩部が設置されていました)。
陸軍通信学校仮鳩舎新築工事実施ノ件
1939(昭和14)年1月
(大日記・陸軍省・大日記乙輯S14-2-30)
防衛省防衛研究所所蔵【特定歴史公文書】
軍用鳩の育成、訓練を行うため仮鳩舎を新築する工事に関する書類です。
陸軍大臣請議 陸軍通信学校令改正ノ件
1938(昭和13)年7月
(公文類聚第62編巻八)
国立公文書館所蔵【特定歴史公文書】
陸軍通信学校令を改正し、鳩部の設置に関して伺う書類。軍用鳩の育成、訓練が加わる鳩通信に関する学術の修習を目的としていました。
学校位置変更認可申請書(文部大臣宛)
1946(昭和21)年11月
(文部省原議書 学校位置変更認可)
国立公文書館所蔵【特定歴史公文書】
東京小石川にあった、帝国女子専門学校が昭和20年4月の戦災により校舎を焼失し、旧陸軍通信学校に移転したので、学校位置変更認可の申請をした書類。(東京財務局指示によるもので、当初は1年間の借用でした。)
関連情報
PDFファイルをご覧いただくには、「Acrobat Reader(R)」が必要です。お持ちでない人はアドビ株式会社のサイト(新しいウィンドウ)からダウンロード(無料)してください。
このページについて、ご意見をお聞かせください
このページに関するお問い合わせ
情報公開・文書管理課(公文書管理班)
住所:〒252-5277 中央区中央2-11-15 市役所本館3階
電話:042-769-8210 ファクス:042-754-2280
情報公開・文書管理課(公文書管理班)へのメールでのお問い合わせ専用フォーム